一井 鳳梧 いちのい ほうご
   

平陽歌舞新承寵
王昌齢「春宮曲」の転句
昨夜風開露井桃
未央前殿月輪高
平陽歌舞新承寵
簾外春寒賜錦袍
昨夜風に開く 露井の桃
未央の前段 月輪高し
平陽の歌舞 新たに寵を承け
簾外 春寒くして錦抱を賜ふ
 王昌齢の春宮曲は、漢の武帝の皇后衛子夫の故事(『前漢書』巻九七上「外戚伝」第六七上「衛子夫伝」)を用いて、新たに君寵を得た人のことを詠っているが、
 服部南郭は「新しい女性が寵を受けるのを、外から見ている心で作ったと見てもよし、あるいは宮女の怨みをこめてきくのも勝手次第」と言っている。
 確かにその裏には、天子に新しい寵愛が出来たために見棄てられた女の怨みが籠められているとも考えられる。
鳳梧はそんな思いで揮毫したのだろうか。
 衛子夫(〜紀元前91年)は前漢の武帝の皇后。“賢后”と称賛された。現代でも数多くの言葉が残っており、その中でも彼女の主義を表現した「不争、不顯、不露、心善志堅」(争わず、感情を表に出さず、才能をひけらかさず。心は善良で志は固く)という言葉は良く知られている。
18.5p×25p

元和2年(1616)生〜享保16年7月25日(1731年8月27日)歿
 江戸時代前期から中期の儒者。雲州(島根県)松江に生まれ。名は先宣、字は桐助、別号桐吾。青年時代に学者を志し、京に出て勉学した後江戸に下り、林羅山に師事した。50歳近くになって大坂の両替町(大阪市中央区)で開塾した。当時の儒学の講義の大半は素読だったが、鳳梧は異国の大昔の孔子や孟子の文言を、現在の社会情勢や暮らしむきに置きかえて、常に討論を勉学の根幹としたので、誰もが喜んで入塾し、大いににぎわった。学者は1200人にのぼったという。著書に『鳳梧論説』がある。円妙寺(大阪市中央区中寺2丁目)に、「一井鳳梧顕彰碑」が立っている。
 落款はなく、下駄判白文の「鳳梧」と朱文の「字桐助」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/110716/20110716027.html
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E4%BA%95%E9%B3%B3%E6%A2%A7-1054552


参考文献一覧      HOME